ハイゼンベルクの不確定性原理について

量子論の基本的な問題が、巷で話題になっているようです。


ハイゼンベルク不確定性原理を破った! 小澤の不等式を実験実証
http://www.nikkei-science.com/?p=16686

この話題は、1月17日(16日だったかな?)の日経新聞(朝刊)の1面記事や、科学面、「春秋」などでも取り上げられていたので、ちょっと取り上げてみます。

特に、「物理の基本法則が誤りだと判明した」というニュアンスの(語弊のある)表現が蔓延っているのが心外というか、もどかしいので、不正確な表現を改めることを主な目的として、このエントリーを書くことにします。なお、このエントリーの読者としては、ブラケット表現を用いた量子論を理解できる人を想定しています。

  • \Delta x \Delta p \geq \hbar /2について

大学の物理の授業で習う不確定性関係は、普通この小見出しのような形をしています。この式は、普通以下のように「導出」されます:
状態| \psi \rangleに対して、演算子\hat{x}_{\rm dif}\hat{p}_{\rm dif}を、\hat{x}_{\rm dif} \ :=\hat{x} - \langle \psi | x | \psi \rangle\hat{p}_{\rm dif} \ :=\hat{p} - \langle \psi | p | \psi \rangleと定義すると、 [ \hat{x} , \hat{p}] = i\hbarに代入することで、 [ \hat{x}_{\rm dif} , \hat{p}_{\rm dif} ] = i\hbarが導ける。
任意の実数\lambdaに対して、ベクトル( \hat{x}_{\rm dif} + i \lambda \hat{p}_{\rm dif} ) |\psi \rangleは同じヒルベルト空間の元、従って非負であるから、このノルムは非負である。よって、\lambdaの2次式 \| ( \hat{x}_{\rm dif} + i \lambda \hat{p}_{\rm dif} ) |\psi \rangle \| ^2 = \lambda ^2 \langle \psi | \hat{p}_{\rm dif}{}^2 | \psi \rangle - \lambda \hbar + \langle \psi | \hat{x}_{\rm dif} {}^2 | \psi \rangleは、実数\lambdaの値によらず0以上となる。よって、判別式≦0を解いて、\langle \psi | \hat{x}_{\rm dif} {}^2 | \psi \rangle \langle \psi | \hat{p}_{\rm dif} {}^2 | \psi \rangle \geq \hbar ^2/4.
系の状態|\psi \rangleにおいて物理量Aを測定したときの測定値の分散は、(量子論うんぬんとは無関係に統計学での定義により)\langle \psi | \hat{A}_{\rm dif} {}^2 | \psi \rangle となるので、測定以前の物理量Aのゆらぎを\Delta Aと表すならば\Delta x \Delta p \geq \hbar /2が言える。



ハイゼンベルクは、当初不確定性原理を説明する際に、
電子顕微鏡を用いて位置\hat{x}を測定するためには、精密な測定であればあるほど、照射する電子の運動量\hat{p}を大きくしなければならない。これによって系の運動量は乱される。測定精度\varepsilon_{x}と測定の反作用\eta_{p}を同時に小さくすることはできない」
といった例を用いていた。しかし明らかに、この\eta_{p}不確定性原理を導出した際に登場する\Delta pとは別物です。(記法はリンク先の日経サイエンスの記事を念頭に置いています)
この点を誤解して、\Delta x \Delta p \geq \hbar /2が示されていることをもって、\epsilon_{x}\eta_{p} \geq \hbar /2は必ず成立する、と主張している人がいますが、これは間違いです。



量子測定理論以外の物理学者は、その日の気分次第で、「不確定性原理」という言葉をいろんな意味に使用します。

このエントリーの冒頭で不確定性関係を導出した文脈では、「状態|\psi\rangleを用意してはxを測定する」という行為を何度も繰り返し、その測定とは別個に「状態|\psi\rangleを用意してはpを測定する」行為を何度も繰り返す、という意味です。その点を誤解している記述も多いです。

また、時間とエネルギーの不確定性と称して、\Delta t \Delta E \geq \hbar /2を掲げる人もいますが、これは全く別の話です。(経過時刻tと、測定で見分けられるエネルギー幅E _{\rm gap}の積についての関係式ですが、これはE _{\rm gap} = \hbar \omega _{\rm gap}を使って t \omega _{\rm gap} \geq 1/2と変形すれば、古典波動論でも知られる関係式になります。)
そもそも時刻tは(少なくとも非相対論の範囲では)可観測量ではないので、「tの測定誤差」とか「tのゆらぎ」とか言うのは意味が分かりません…。


  • 結論:今回の研究成果について

前置きが長くなりましたが、というかエントリーの大部分が前置きになってしまいましたが、小澤の不等式は測定精度\epsilon_{x}と測定の反作用\eta_{p}についての関係式であり、これは数学的に証明できる\Delta x \Delta p \geq \hbar /2とは別物です。
小澤の不等式によって量子論の前提が崩れるわけでもなければ、量子論の研究者に衝撃を与えるというようなものではありません。
(とは言え、今回の研究が凄くないというわけではありません。小澤の不等式は\epsilon_{x}\eta_{p}を用いた非常にシンプルな関係式を提示しており、素晴らしい研究成果です。量子測定理論に携わっている研究者なら皆、小澤の不等式を知っているでしょう。また、これを実験的に検証したことに関しても、人間がここまで量子の世界を操れるようになったという点で重要な成果です。)

日経新聞の「春秋」で、この研究が「ニュートリノが光速を超えた」という(恐らく間違っているであろう)研究と同列に扱われていることに危機感を覚えたので、筆をとってみた次第です。