基礎研究の必要性

ここ3日間の事業仕分けで、科学の在り方を考えさせられることがある。


仕分け人の言い分は、「基礎研究であっても、納税者にはっきりとした形でリターンを提示できる形であるべきだ」というものだと聞いている*1
それに対して、巷では
「科学は数十年、数百年という単位でリターンが見込めるものであり、損得勘定になじまない」
「我々が恩恵を受けている文明の利器はどれも、直接は役に立たない基礎研究が結実したものである」
という類の反論がなされています。


もちろん、iPS細胞の研究は再生医療に貢献するし、高温超電導のメカニズムの解明は次世代デジタル技術に応用されるだろう。また、脳の仕組みを理解することは、かつての物理学がそうであったように、現在の我々には想像もつかないほどの利益を、100年後の人類にもたらす可能性がある。


だが、全ての分野がそういう分かりやすい目標を持っているだろうか。
例えば、素粒子物理は究極のミクロ構造を探っている。しかし、物質の最小構成単位が原子だとしても、クォークだとしても、或いはクォークにも内部構造があるとしても、どのみちそこからエネルギーや情報を取り出すコストパフォーマンスが悪いために、その知識は未来の人間の日常生活には何の役にも立たないという可能性もゼロではない。そんな不確かな可能性のために、例えばCERNでは年間1000億円もの予算を費やしている。
数学の場合はもっと顕著で、例えばフェルマーの最終定理が証明されたことによって、100年後の生活が豊かになる確率がどれだけあるだろうか。


もちろん、人間の役に立たない数学研究、素粒子研究はやめてしまえ、と主張するためにこの記事を書いているのではない。


よくある一般向けの話として、
アインシュタイン一般相対性理論は、何の役にも立たないと思われてきた。しかし、今ではGPSシステム(全地球測位システム)が正しく動作するために、一般相対論的補正が不可欠である。このように、基礎研究は100年単位で結実する研究なのである」
という論調がある。
だが、これではまるで、GPSシステムが開発されなかったらアインシュタインの偉業は無意味なものであったかのように聞こえる。
そうではない。人類の世界観を広げた時点で、一般相対論は科学的に十分に役目を果たしており、おまけとして応用にも貢献しただけの話である。


アリストテレスの時代にも、ガリレオの時代にも、当初の動機は日常生活で楽をするために便利な道具を発明することではなく、純粋に真理を追究することであった。偶然にも、その延長線上に現在の豊かな世の中があるに過ぎない。


「学術研究とは、日常生活を豊かにするためのものだ」という誤解をしているマスメディアや政治家たちは、すぐに「応用上の展望は?」と愚問を投げかけてくる。
ところが、人間は生まれながらに知的好奇心を持っていて、「我々はどこから来たのか」とか「宇宙の果てはどうなっているのか」という根源的な疑問には誰でも興味を抱いているはずである。
基礎研究はそれを模索する一端を担っています、と言えば研究の意義の説明としては十分ではないだろうか。


もっとも、そこまで理解した上で、「私は、人類の知見を広める必要はないと考えるので、基礎研究に国費を費やすことには反対します」と主張する人がいれば、そこから先は個人の思想の問題なので反論できない。
しかし、科学技術が飽和しつつある現代社会では、むしろそういった動機こそが人類の活力になると僕は思っている。

*1:ustreamのライブ中継の大部分が、雑音が多くて聞けなかったため、その発言は僕が直接耳にしたものではありません。もし上で紹介した仕分け人の発言に、語弊があったらすみません。