今、ここにいるしあわせ

今朝、ご飯を食べ終わってからふと思い立ってピアノを1時間ほど弾きました。その後、クリーニング屋に行くために外に出ると、家の前の石段に腰掛けたお婆さんがいました。坂の上に住んでいて、数年前までそこでパン屋(≒駄菓子屋)を営んで近所の子供と接していた方です。
「今日はもう終わり?」
僕が、「はい」と頷くと、お婆さんは杖をついてゆっくりと立ち上がりました。

その後、僕が坂の上にクリーニングを受け取りに行くと、いつものように引換券なしで顔パスで仕上がったワイシャツを渡してくれる店員も、近所のおばさん。
帰り際に、洗濯物を干しながらこちらに会釈してくれたおばさんも、僕の幼少の頃と少しも変わらない温かい表情。

何も珍しくない日常のワンシーンだけれど、何故かちょっと不思議な感覚でした。
高校に入った頃から、活動の拠点が都内にシフトしていって、このような以前では当たり前だった光景も、享受することが少なくなっていたのでしょうか。


ウチのそばの貨物駅を旅客化し、横須賀線東急線経由で都心に繋ぐ鉄道計画があります。
http://www.sotetsu.co.jp/train/into_tokyo/
別に鉄道オタクじゃなくても、家の近くに駅が出来て都心へのアクセスが便利になったら嬉しいですよね。

これに関して、去年の11月頃に地元説明会が開かれ、もちろん僕も参加しましたが、地元の老人の一部が反対意見を表明していました。
「大規模な開発によって街なみが破壊されてしまう」
という地元民の意見に対して、横浜市
「『街なみ』という点では、駅周辺の広大な農地は積極的に保護していく意向だ」
と回答していましたが、それでも地元民は不満な表情を浮かべていました。

目先の便利さだけにとらわれていた当時の僕は、
「デメリットなんて1つもない(強いて言えば固定資産税が上がる程度)のに、何故反対するんだろう? むしろ、新駅周辺の農地を全て市街化区域に変更して、大規模なショッピングモールでも作ってくれれば、日用品を揃えるために車を使わずに済むのに・・・。現状だと雨が降った翌日は畑から道路に流れてくる大量の土のせいで、自転車で通学すると泥がはねまくるし・・・。」
と思っていましたが、最近になってようやくその老人の発言の意味が分かってきました。
駅が出来れば、マンションが建設され、都心を活動拠点にするサラリーマンが大量に流入してくる。(←事実、15年くらい前からそうなりつつある)
農地を保護するとか、騒音に配慮するとか、そういう短絡的な説明では、老人たちに不満が残るのも尤もだ、と今になって思いました。
僕が今日感じたような、この感覚こそが、老人が本当に守りたいものなのだと知りました。


ピアノでも、決められたテンポ・強弱で決められた音を弾くだけでは何の感動も生まれないし、勉強でも、答えのある問題を解くことは通過点に過ぎないと(他人に言われるのではなく)自分で気づけないとダメだし、スポーツでも、成績にこだわりすぎるとスポーツをする意味を見失いがちだと思います(←これが、僕がプロ野球よりも高校野球を観るのが好きな理由です)

このように、言葉では表現できない大切なことがあるということは、先の老人の例に限らず、大人なら分かっているものなのでしょうか。

長期休みに入るたびに、親戚が集う田舎の祖父母の家に帰省するように僕に催促する両親に対して、
「なんのために?要件があれば電話で伝えるじゃん。」
と尋ねる僕は無神経だったのでしょうか。