二次元と三次元
僕がちょっぴりアニメが好きだと言うと、よくある世間の反応は、大方こんな感じです。
- 「フタパラ君って、こういう子が好きなの?」
- 「二次元と三次元、どっちのほうが好きなの?」
- 「いい加減三次元にも興味持てよ」
- 「ハルヒみたいな奴が、現実にいたら鬱陶しいだろ」
- 「いや、そのキャラって、まだ小学生だろ?」
これらの発言の共通点は、いずれも二次元の世界を現実と結びつけて捉えている点にあります。でも、僕はそれら2つの概念(「三次元が好き」と「二次元のキャラクターが好き」)は区別されるべきだ、と思っています。
まずは、話の前提を整理しておきます。一口に「好き」と言っても、少なくとも次の2種類が挙げられます。
(i) 対象を一方的に愛でるだけで満足したり、一時的な胸の高揚を感じること。
(ii) 相手を自分の環境に巻き込んで自分の日常に影響を与えたり、相手の環境に自分の身を置くことによって相手の価値観に影響を与えたい願望。
「二次元が好き」とか「好みの芸能人は…」とか言うのは(i)の意味なのですが、(i)であれば対象がヒトでなくても実現できます。(ex. 花を植えたり、ぬいぐるみを飾る、など)
もちろん、三次元の身近な人に対して(i)の感情を抱く人もいるでしょうが、逆に、(ii)の感情を抱くことができる対象は三次元の身近な存在(性別を問わず)に限られます。
本題に入ると、二次元のキャラクターを「好き」と言った場合は、(i)の「好き」以外は物理的に不可能にもかかわらず、なぜか多くの一般人が(ii)と混同してしまうわけです。
図1:多少語弊のある概念図。
実際には個々の価値は無数に多くの軸で指定されるべきですが、
その2次元断面を適当に選んだと思ってください。
この事情を表したのが、図1です。横軸は、意見を交わすことで、どれだけ価値観を共有しあったか(=2人の価値観の間の、相関の強さ)を表します。ゲームも(一方向の)情報の流れはあるので、相関はゼロではないのですが、とても限定的です。
縦軸は、対象とのやり取りによって、一時的な満足がどれだけ得られるかを表します。良いゲームであれば、全く不快に感じることもなく、十分な満足だけを得られることもあります。
このエントリーの主張は、図1を使うと、
と言いかえることもできます*4。
巷の一般人の目には、の値を大きくすることをしない(or できない)人が、代替手段として、の値を大きくしているように映るのかもしれません。
しかし、全てのアニメと大部分のギャルゲーはそのように作られてはおらず、キャラクターを愛で楽しんだり、ストーリーに感動したり、素朴な笑いをもたらすものです。
二次元の世界が、悪い第一印象を与える趣味として一般人から敬遠されたり、特定の政治政策を非難する材料として野党に利用されたりしているのが、本エントリーで考察した理由によるならば、残念なことです。
こういう記事を書くことによって、少しずつでも一般人の誤解を解いていければ、と思います。
*1:アニメやゲームのストーリーはそれ自体で閉じているので、敢えてそこに登場するキャラクターを自分色に染めたいという願望は生じにくいです。もっとも、全てのゲームを網羅した言及ではないですが、多くのゲームにおいて言えると思います。
*2:巷で見かける「〜は俺の嫁」という表現を槍玉に挙げて、「オタクはの大きさに言及しているじゃないか」と反論されるかもしれません。でも、「俺の嫁」という表現はの大きさが甚だしく大きいことを形容するために、別の座標軸から言葉だけを借りてきただけに過ぎません。
*3:この議論でを固定することに異議がある人もいるかもしれませんが、そういう人は、とが独立変数になるように変数を取り直したと思ってください。
*4:同じ問題は、別の場面でも登場します。例えば、元カノから貰った手紙を大切に保管しているのを現在の彼女に目撃されたら、若干気まずくなりますよね。でも、もしその人が、手紙を時々取り出して思い出に浸るだけで満足しているならば、既には増えない状態にあっての値を一時的に増やしているだけなので、大して問題がないように思えます。 もっとも、この例では、本当に現段階で情報のやり取りによってを増やしていないかどうかが、直ちに判断できないので、二次元世界の話ほど単純ではないですが。