専門用語の翻訳について

以前の記事に引き続き、ある意味での愚痴です。

最先端の科学をするのには、どの分野でも国際交流が必須であり、研究者のたまごは大学生の途中くらいから、論文などを英語で読む必要に迫られます。時期は分野によって異なるけれど、理学部物理の場合は大学4年生くらいからだと思います。


今回のエントリーは、先日僕が配属している研究室で英語のセミナーをしていた際、混乱した英単語に関する話です。



突然ですが、質問です。数学の「外積」を英語で言うとなんと言うでしょう?


ネット上の内容豊富な和英辞典によると、


外積
cross product《数学》 // exterior product // outer product《数学》


3通りも用語が出てきました。同じ概念に異なる用語をあてることは数学ではマレですし、実際この場合も、英語ではきちんと用語が区別されています。


<1番目の記事>
Wikipedia(英語版)によると、exterior productとは、Grassmannが1844年に導入したウェッジ積 v \wedge w すなわち、与えられたベクトル空間内の2つのベクトルから、同じ空間内の新しいベクトルへの写像であって、一定の条件を満たすものを指すようです。

exterior productに対応する日本語のページは存在しないようです。


<2番目の記事>
次に、同じくWikipedia(英語版)によると、cross productとは、exterior productの中でも特に3次元の場合のみを指すようです。例えば、角運動量の古典的な定義 \vec{L} = \vec{x} \times \vec{p} に表れる記号 \times が、cross productの一例ですね。

また、cross productに対応する日本語のページへジャンプすると、「クロス積」という日本語があてられていました。また、日本語・英語いずれの場合でも、同じ概念のことを「ベクトル積(vector product)」と呼ぶこともあるようです。
日本の古典力学の授業では、これを「外積」と呼ぶこともありますが、Wikipedia(英語版)では"exterior product"や"outer product"といった用語とは明確に区別されていました。


<3番目の記事>
最後に、Wikipedia(英語版)でouter productを調べてみると、今度はベクトル同士のテンソル積を表すようです。(つまり、前の二例とは異なり、像空間 {\it V} \otimes {\it V} は変換前のベクトルが住んでいる空間 {\it V} \, とは根本的に異なります。

さすがに両者は一応日本語でも区別されているようで、この英語版のページから対応する日本語のページへジャンプすると、「外積」ではなく「直積」と表記されていました。


<4番目の記事>
あれ?でも「直積」を素直に英語に直したら"direct product"になるよね? と思って、Wikipedia(英語版)でdirect productを検索してみました
今度は、ベクトル(元)同士を合成したものではなく、群・環・体などの数学的な構造を合成したものに対して"direct product"という概念が定義されていました。
direct productに対応する日本語のページは存在しないようです。



以上、まとめてみましたが、やっぱり紛らわしいですね。僕は"exterior product"という意味を伝えるために"outer product"と言い続けたため、カナダ人の助教に通じなかったわけです。



以前から思っていたのですが、今の時代に研究者になるならば将来的にはノーベル物理学賞を受賞された益川さんほど偉大でない限り)英語が必須になるのだから、最初から専門用語は全て英語で習えばいいのに・・・と思うわけです。

というのも、例えば、行列(matrix)やスカラー(scalar)は、英語では「メイトリックス」「スケイラー」と発音するのに、なぜか日本語では「マトリックス」「スカラー」と誤った発音が定着しています。大学3年までで日本語で学んだ概念を、大学4年生くらいになってから、英単語として学び直さなくてはなりません。(この文章で述べたような分かりづらい例はさほど多くないですが)


もっとも、全ての専門用語が英語のままだと、専門外の人には敷居が高くなってしまいます。例えば、生物学や医学の用語がドイツ語由来の見慣れない英単語ばかりだと、物理学者や化学者がその分野に首を突っ込むことが困難になってしまいます。
でも、一見すると見知った単語であれば必ずしも馴染みやすいかというと、その限りではありません。例えば線形代数に現れる「ジョルダン細胞」の「細胞」は生物学の細胞とは全く関係がなく、単に「分割された基本単位」程度の意味の英単語"cell"が「細胞」と訳されてしまっただけだと、僕は思います。
高校生でも分かる例だと、化学で「質量作用の法則」という法則がありますが、これは"Law of Mass Action"の"Mass"を「質量」と訳した結果です。でも、「質量作用の法則」の化学での意味を考えると、"Mass"は「質量」ではなく「多くのもの」という用法が適切だと思います。もっとも、この辺の用語が日本に入ってきたのは開国後すぐのことなので不可抗力だし、初めて訳をつけた先人たちを責める意図は全くないです。また、「質量作用の法則」に関しては「適切な訳語が思いつかない」というよりは「誤訳」なので、ここでの文脈には相応しくないかもしれません。



以上をまとめると、数学や情報学などのように、「登場する用語は全て定義されて初めて意味を持ち、日常用語との対応が必ずしも必要でない」という分野では、下手に他言語に翻訳する必要はないのではないか、というのが僕の結論です。


でも所詮は、英語も日本語もできないダメ日本人の戯言です。語学が得意な人はきっと、ここに書いたようなことは気にならないのでしょうね。。。