量子状態の近さの尺度

量子情報で、混合状態同士の近さを表す指標として、"trace distance"と"fidelity"がよく使われる。



trace distance : D_1 = \frac{1}{2}tr|\rho - \sigma |



fidelity: D_2 = tr\sqrt{ \sqrt{\rho} \sigma \sqrt{\rho} }

一方の尺度で状態の近さを計算したら、他方の尺度での状態の近さについても上限と下限が分かるので、実質的にはどちらを使っても似たような情報を得られる。
trace distance のほうが、古典情報学での「似たようなデータ系列」という意味を反映していて直観的なのに対し、fidelity のほうが

  • (特に一方が純粋状態の場合に)式が簡単で、計算しやすい
  • (特に実験を行うときに)求めるべき行列要素の数が少なくて良い

という実用的なメリットがあるらしい。



それはそうと、任意の演算子同士に対して定義できる内積のひとつに、"Hilbert-Schmidt inner product"がありますよね。



Hilbert-Schmidt inner product : (A,B) = tr(A^\dagger B)


内積を用いれば自然に距離が誘導されるから、次のように距離を定義することも可能なはずです*1



Hilbert-Schmidt norm : D_3 = tr[ (\rho - \sigma )^2]


そこで僕の疑問。


なぜD_3は距離の指標として用いられないのだろう。D_3だって距離の公理を満たしているわけだから、

D_3 =0 if and only if \rho = \sigma

という性質は満たしているはずなのに・・・。



ちょっと考えてみたら、以下のような反例を見つけました。


系の次元を2dd自然数)とし、


 \rho = \frac{1}{d}(|1\rangle\langle 1| + |2\rangle\langle 2| + \cdots + |d\rangle\langle d| )
 \sigma = \frac{1}{d}(|d+1\rangle\langle d+1| + |d+2\rangle\langle d+2| + \cdots + |2d\rangle\langle 2d| )

とすると、\rho\sigmaは台(support)が直交しているので、確率1で(決定論的に)区別できるはずです。


この状態に対して、trace distance と Hilbert-Schmidt norm を計算してみる。
trace distance は  D_1 = 1 (trace distance の上限)となるので、「確率1で区別できる」という結果を正しく与えるのに対して、
Hilbert-Schmidt norm は  D_3 = \frac{2}{d} となってしまい、結果が系の次元に依存してしまう。例えば、 d \rightarrow \inftyの極限で、 D_3 \rightarrow 0 (状態は全く見分けがつかない)という誤った結果を与えてしまう。
 d\rightarrow \inftyという極限は、マクロ系の量子論を考えるときに重要になるので、D_1ではなくD_3を使うべき、という結論に落ち着きました。

*1:\rho\sigmaがエルミート、従って\rho - \sigmaがエルミートであることを使いました。